陰陽五行 もの事のとらえ方

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四柱推命では、暦、陰陽五行を用いるため、そこに興味が湧いた。

この陰陽五行は道教で用いられこの世の真理を考え学んでいく。そして、いつもそこには行動が伴ってくる。

武道・武術には、この考えが用いられ、ジークンドーや太極拳ほかにもその理念がある。

陰陽は対になるもの、対義語である。

陰陽とは、簡単には表と裏、光と闇と対になる関係であるため、言葉では対義語になる。

それを現代の世の中に取り入れ、人と接し、事件や行事、暮らしなどに昔の人々は取り入れてきた。

いいことも悪いこともとらえ方で、幸か不幸か変わってくるだろ。

五行は万物の理。

五行は木火土金水(モク・カ・ド・ゴン・スイ)のこの五つの自然、万物の理でこれによって、人はそれぞれの星々を導き、運命を推命する、四柱推命や西洋占星術などが生まれていった。

五行はそれぞれが影響し合い、調和を取るようになっている。

木は火を薪となり強くする。火は土を乾燥させ固くする。などと相生となる。

それは互いに助け合い、力を渡す関係になる。その度合いが強くなったり、弱くなったりしてバランスが乱れたり、整ったりする。

それを整えるに強くなりすぎないように相剋といい、剋す関係性もある。

水は火を消すように、また、土が水をせき止めるように剋するのだ。

補助をし、それが強いと剋されバランスが整う。

これは人体にも言えることで、食事や睡眠、休養などに取り入れ人生を豊かにしてきた。

東洋医学はこの考え方があり、名医の方々は東洋医学と西洋医学の考え方、ともに持ち診断されているように思う。

五行にも陰陽がある。

五行の木火土金水(モク・カ・ド・ゴン・スイ)にも陰陽がある。

それが、十干である。

十干(じっかん)は「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」になる。

読み方は「こうおつへいていぼきこうしんじんき」である。

これは古代の数字に当たる。左から1番、2,3,4,5…10となる。十進法。

その陰陽というと、例に挙げると”木”から説明しよう。

”木”は甲と乙になる。

甲(こう)は「きのえ」と呼び、乙(おつ)は「きのと」と呼ぶ。陰陽は陽に”え”を付け、陰に”と”をつける。

合わせて”えと”になる。干支(えと)となる。

さて、干支というと十干の干ということになる。干支は十二支のことかとおもわれよう。

四柱推命では、十干、十二支を用いて推命していくから、その呼び名にも歴史や理論が付きまとっている。

陽は乱れ、陰は定まる。

陰陽の陽は力が強く波が荒れるが、陰は穏やかで安定している。

それは奇数は乱れるが、偶数は定まるともいえよう。四柱推命で相性を見ようと思うとその陰陽が合うかという所を多く見ている。

そして、これは男女を表しており、男は陽で荒々しく勇ましい、女は陰で優しく穏やかであるように考えられている。だから、結婚によって陰陽が交わり無になる。

武術では、陽は技術や力で、相手を手にかけるときの実践の手段である。それに反し陰は知識や思想といった、力を、どう扱い、人と接するかを考える。

だから、段や位はそれに伴って上がっていくもので、高度な技を身につけて相手を殲滅しても真の強者ではないのだ。戦を交える前と後でどうするかが大切になり、その部分は陰の部分が重要になってくる。そのため、常に上を目指し果て無き修行ということだ。

学問の陰陽を分ける日本

学問にも陰陽があるとは思わないか。

学問には分野といったことがあり、現代の日本では、理系と文系で大きく分けている。それはまさに陰と陽であろう。

陽は理系であり、陰は文系である。

日本が太平洋戦争で敗戦する前に、原子爆弾を二発(ファットマンとリトルボーイ)も落とされた。これは、科学の在り方について考える重大なものだ。

銃だってそうだ。武力や兵器は作るのは理系だが、どう扱えば、人々が幸せになれるかつながるかについては文系の仕事になる。

だけれども、日本ではそれを分けてしまっているだろう、それは一人の人間の陰陽の制御がない状態になるのではないであろうか。

盗人にも三分の理がある。言葉にも出てくる考え。

盗人にも三分の理があるのは、それなりに理由があるということだ。

悪事という表となぜそれをするに至ったかという裏があるわけだ。この故事ことわざには陰陽があるとは思うだろう。ほかにも陰陽を指すことわざがある。

ことわざは人々が暮らし生きてきた歴史や宗教性によって生まれている。もっと言うと言葉にはその力が顕著に表れていくる。

言葉には力があり、民族間のつながりになる。

言語によってつながり友達や恋人をつくり、結束を強めれるように感じる。この感じるということがあるからに集団に属し社会性を気付けている。

ただし、言葉によって人は失ったものもある。その概念が同じという考え方になる。

五行は大雑把な区分だが、木といっても楓の木、ヒノキなどなどある。

そして、同じという概念によって個々の違いを無視してまとめていいる。

楓の木はそれぞれ違うものだが、名前というものですべてのものを1つにまとめていしまうのだ。

ゆえに個の細かなところを見れなくなる者が現れてきた。

その違いは無視されていく。しかし、人は考えることができるため一部の人は、疑問をもち探求されていくようになる。

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