頭が悪いモノは恥を知らぬ。恥知らずには暴力でしか制御できない。

愚かな者は恥を知らぬ

愚かな人は人を気付けて、和を乱し不満を口にする。そういった人は、恥を知らぬ。

恥を知らぬものは、恥をかいていてもわからないから、続けてしまうのである。

モラハラやDVを行う者が現代において、多く出てきたのは恥を知らぬか恩を知らぬかのどちらかのように思う。いや、どちらもないな。

頭が良いとは、恥を知ろうとすることではないか。

恥を知らぬなら、知ればよい話だ。

恥を知るには、師匠が必要となるし恥を知るものに笑われ、指摘されなければわからないものだ。

現代では師弟関係を持つことは難しく、武道や茶道、華道、書道などの道の世界にこそ現代に残る師弟関係の場である。

私の茶の師匠は礼法が美しい、その美しさや気品は言葉では語れない。かといって見てわかることでもない。それを真似ていくしかなく、茶の湯の教えに従い、そのことばを大切し人間を磨くことで少しずつ成長していく。

恥知らずは恥に気が付かない。

私たちは自身が出来ていると思っているものほど、手を抜き新参者に追い抜かれてしまうものだろう。

恥を知らぬものは、自分が追い越されているのにも関われずそれに気づかないものだ。

気が付かないのは、何もしていないかもしれないが、行っておろうとも周りを見ていないことも考えられる。自分は食べ方や歩き方、座り方、立ち方などの所作にこそある。

では、それを知るにはというと学問にある。

学問は人間を獣から人にする。

恥知らずは獣と大差ないだろうよ。恥知らずは人を容易に気付つけ追い詰めることがある。現代ではモラハラなどであろう。そして、決して非を認めず喚くのだよ。だから、法で裁くことになる。法はある種の暴力だ。

法律の制御が効かなくなると、武力行使の傾向が強くなる。武力行使を頻繁に用いる国は学問がないか無法地帯となる。

武力でしか、制御できないモノは獣だ。子供の躾で場合よって暴力を使う。それは物理的か言葉の暴力かは人によって違う。しかし、最終的な手段は武力行使になる。

事を考えれるようになる、認めること受け入れることなどは理解や解釈を重ね考える必要が出る。それを養うのは学問になる。

それによって、獣から人になることができる。

恥を知り、人道を歩む

では、人なりて恥を知りるには学問が必要だ。

学問すること、勉強はどうすればいいか。

勉強とは、何かを覚えることはその一つだが、知識は言葉や概念であり、知識は知識でしかない。故に論語読みの論語知らずとなる。

勉強の本質は思考することになる。その材料として知識が必要となる。つまり、必要な時に暗記をすければいいのだよ。また、漢字の読みや言葉の意味は辞書を引けばすぐにわかる。それに人に聞いても教えくれることも多々ある。

勉学にはいくつかの手段があるだろう。例えば

  • 読書をする。
  • 美術館・博物館にいく。
  • モノの観察をする。

などが思い浮かぶ。

しかし、どれを行うにも取り入れるだけでは不十分で、取り出すことアウトプットの方が大切になる。

それは文章に起こすことや人に話すことなどが必要となる。

何かを見て学んでも、何を学んだのかを自身が理解・解釈をしなければならない。

また、見方を変えることが大切で多様な見解が必要になる。それは解釈だ。

解釈は一人ひとり違うため、友達や家族、学会などで話すことで違いを認識できよう。

仮にデートで美術館に行き、その作者の画材や考え、時代背景などを語りあえるとレベルの高いものとなろう。しかし、それは哲学であり、宗教性が強くなるため受け入れがたくなる者もいるだろう。

デートで深い内容で対話できると相当楽しいモノになるだろう。

読書だけでは不十分なのは、知識のアウトプットが不足することだが、読書によっての知識や見方考え方を誰かに伝えたることは、コミュニケーションにおいて有利に働き語彙の選択や内容のレパートリーが取れる。

また、意味のなそうなものでも後に学問の一部であることもあるから。人の無意味そうな行いもいいことだとは思う。

恥知らずを嘲笑うことは無意味であるから、時間を大切にした方が良い。

恥を知らないものhを見ていると笑いが止まらないことがあると思うが、それを教えるのであればいいが、皆言わなくなり笑いものとして終わらせてしまう。

言われるうちが花とはよく言ったものだ。

恥知らずが迷惑を被ることをするのなら、対処すべきだが、見て終わるのであれば、恥知らずのおしえてやるか、相手をせず人の恥をみて自身の恥を確かめ正す機会ととらえるとよいだろうよ。

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